【女一人旅】東京あちこち・大龍寺(東京都北区を歩こう)正岡子規の眠る墓所、真言宗、歌人、俳人、明治、歴史

大龍寺 (だいりゅうじ)

正岡子規の眠る墓所を訪ねました。

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はじめに

正岡子規が何をしたか、知っていますか? クラスに1人は居そうな風貌から顔だけを覚えていたり、どんな人物かは知らないなんて人も多そうですよね。素晴らしい文筆家であった正岡子規について、分かりやすく書いてみます。

正岡子規とは

俳人歌人・随筆家。

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愛媛県松山市に生まれ、名前は常規(つねのり)、幼名は升(のぼる)です。ペンネームの子規は、病に侵された自らを”鳴いて血を吐く ホトトギス”から名付けました。

エリートコースを中断して

現在の、開成高校(協立学校)、東京大学教育学部(大学予備門、のち第一高等中学校)、帝国大学(東京大学)進学と、まさにエリートコース。そんな頃、野球とも出会って夢中になりました。一方で、21歳で結核を患い、喀血するようになっていきました。

落第点を取ったことを機に大学を辞め、文筆の道へ進みます。日清戦争時、従軍記者として戦地に赴き、その帰宅路で重態に。

29歳で歩行が困難となり、脊椎カリエスであることが発覚しました。母と妹の支えられ、病と闘いながら、歌と句を続けました。 

野球大好き青年
日本に上陸したばかりの野球を「ベースボール=の・ぼーる(幼名から)」と言って慕い、子規の名付けた野球用語は現在も使われています。

大龍寺 概要

 東京都北区にある、子規の墓所です。

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大龍寺
宗派:真言宗 (霊雲寺派)
本尊:両部大日如来
札所:豊島八十八箇所 霊場:二十一番

住所:東京都北区田端4-18-4

電話:03-3821-0014

開設時間:9:30~16:00

休館日:毎週月曜日、年始(1月4日~8日)


この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596~1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781~1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。この寺の境内には、俳人正岡子規、宮廷音楽家E・H・ハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。(寺院前の立札より)

 

交通アクセス

電車を利用

JR山手線・京浜東北線駒込」駅下車 徒歩11分、「田端」駅 下車徒歩12分 

都営三田線「千石」駅下車 徒歩23分

バスを利用

「田端三丁目」下車 徒歩6分、「駒込一丁目」下車 徒歩6分、「富士見橋エコー広場館」下車 徒歩5分

車を利用

コインパーキングあり

 

正岡子規の時代

子規は、1867~1902年、愛媛県松山市で生まれました。

同郷の秋山兄弟、文友の夏目漱石、記者時代に森鴎外など、同時代を生きる優秀で個性的な仲間たちと交流をもちました。また病に侵されながら、素晴らしい作品をいくつも残しています。

坂の上の雲

 

正岡子規ゆかりの地

愛媛県松山市

司馬遼太郎坂の上の雲」で知られる、正岡子規の少年時代。私は、江川達也日露戦争物語」(漫画) も読みました。

上野近郊にで暮らす

子規は16歳で上京し、日本橋浜町、文京区真砂や向ヶ丘(駒込追分町)、台東区根岸(下谷区上根岸町、上根岸町)で暮らしました。

子規庵

終焉の地となった子規の住居は、東京都史跡として公開されています。現在は、コロナウイルス感染症の影響で、来年の3月31日まで臨時休業しています。

 

感想

東京都北区

豊島区や台東区はよく足を運ぶのに、北区は怖いイメージがあり、ほとんど行ったことは有りませんでした。今日初めて訪れてすっかりイメージが変わりました。

子規の墓

墓地は、小さな竿石だけのものや立派な囲いの墓石まで、様々なお墓がありました。

子規の墓は、境内に入って左側の一番奥にあります。北区田端中学校のすぐそばです。

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静かな寺に葬って欲しい

病で苦しみ抜いた正岡子規が亡くなり、遺族らはこの地に埋葬しました。墓所はとても静かで、風になびく竹の合わさる音がよく聞こえました。西日が強く墓石を照り、眩しく美しかったです。

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絶筆三句

子規が最後に書いた糸瓜の句があります。命日は1902年(明治35年)9月19日でした。

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正岡常規 又ノ名ハ処之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名ハ
竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太 松山藩馬廻加番タリ 卒ス 
母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十 年 月 日没ス 享年三十 月
月給四十圓

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

・痰一斗糸瓜の水も間に合はず

・をとゝひのへちまの水も取らざりき

子規が患った結核は、喉に痰が詰まる苦しい病気です。糸瓜の水は痰を切る効果があるとされていました。自宅の庭に植えられた糸瓜を布団の中からいつも見ていたのでしょう。死の間際にこの有名な句を3つ書き残しました。

糸瓜 (秋の季語)が咲く頃には痰がつまって死んでいる(仏となる)だろう

・1斗(約18L) の痰が詰まった自分には糸瓜の水(薬)も効果がない

・一昨日 (十五夜)のへちまの水をもう取らなかった

子規が最期に書いた句は、生への未練と死への諦め 両方あるように読み取れますし、もう「糸瓜」の文字が書けないほど重篤で、いよいよ意識が遠のいていく一方、日付をちゃんと理解していた子規の気丈さが伺えます。

「取らざ(ず)りき=取らなかった」打ち消し助動詞「ず」の連用形+過去の助動詞「き」

誰が取らなかったか?病床の子規は取ることが出来ませんから、へちまの水を取る家族ももう匙を投げたのか、そう考えた子規の無常な心が悲しくてなりません。

五・七・五の文字に、これほど思いを表現できる子規の才能の高さが見事で、限りある命の美しさと儚さが、今もずっと心に刺さります。

 

最期まで苦しみ抜いた子規ですが、今は母親の隣で安らかに眠っています。

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病牀六尺

子規は、結核だけでなく脊椎カリエスと言う凄まじい痛みを伴う病にかかり、「病牀六尺」を書き上げました。作中で。六尺=180㎝程度の場所が彼にとっては広過ぎると言うのです。私は作品を読んで震えあがりました。

脊椎カリエスとは、感染した結核菌が血流によって脊椎に入り化膿してしまう病気です。マリーアントワネットの長男も同じ病気にかかり、少年の内に亡くなりました。

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ご拝読ありがとうございました。

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