【女一人旅】東京あちこち・上野恩賜公園(東京都台東区を歩こう)不忍池の怖い話 ⑶彰義隊の怨霊~信念を貫いた義の心~(明治時代)怪談

不忍池にまつわる怪談話、そして歴史を書いてみます。

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上野恩賜公園の記事 まとめ

不忍池を知ろう

不忍池にまつわる怖い話

⑴感応丸と柳の前(室町時代)

⑵お蝶伝説(江戸時代)

彰義隊の怨霊(明治時代)

⑷炎が見える池(大正時代)

⑸さまよう亡霊(昭和時代)

⑹未解決の殺人事件(平成時代)

⑺私の心霊体験(令和時代)

彰義隊、無念の死

慶応4年(1868)、旧幕臣たちの義勇軍彰義隊は上野山で新政府軍に敗れました。その死骸は見せしめのため晒され、腐敗した遺体はずっと放置されていました。

2年後ほどして、見かねた円通寺(南千住)の和尚が死骸を火葬(荼毘に伏す)しますが、彰義隊士たちは無念の死を遂げ、悔しかったのでしょう。幽霊の目撃談が相次ぎました。

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不忍池の怪談

大義を持って死すが

上野戦争は、旧幕府軍の放った砲弾が不忍池に落ちて水しぶきをあげたことが発端でした。相手方は最新鋭の兵器を装備、一方で彰義隊士らは昔ながらの刀を持って戦に望みました。勝負は新政府軍の圧勝です。時代や死を受け入れられない侍たちの魂は、時代が変わっても消えることはありませんでした。この戦で一番の激戦地となったのは "黒門" です。

銃の音が聞こえる水場

この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門(くろもん)」の姿を表現しています。

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「黒門」は、寛永寺の総門です。かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。公園入り口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入口となっており、その先に「黒門」がありました。

幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。焼け残った黒門は明治40年(1907年)、東京都荒川区円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊墓所があり、黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。(立札より)

目撃情報、どんな幽霊?

 この辺りは京成上野駅の隣に位置しており、夜も人通りが多い場所です。しかし不思議な現象が起こると言われています。花火をやっている訳でもないのに爆音が聞こえるのです。バンッ、ガラガラ、パチパチ・・ と音がして、周辺を散策しても何もありません。激戦の時に使われたアームストロング砲の音ではないか、彰義隊士はまだ戦いを続けているのではないかと考えられています。

不忍池に伝わる音

また、不忍池での水しぶきがこの戦闘開始の合図となりました。未だ何も無いのに不忍池で水しぶきが上がったり、鬨の声(戦の掛け声)をが聞こえるそうです。私は体験したことがありませんが、爆音や鬨の声を聴いたことのある人は身近に居ました。そんな時はまるで自分ではなくなったような気持ちになり、悔しさがこみ上げ、感情が抑えきれなくなるそうです。 

霊を鎮める西郷隆盛

新政府軍に対して反乱を起こした西郷隆盛銅像は、墓にお尻を向けていますが、先導しているようにも見えます。彰義隊の魂を鎮めるためなのかもしれません。 

彰義隊士たちは、信念を貫き最後まで幕臣として戦って散りました。成仏出来ぬまま上野をさまよい、死後も尚、戦っているのでしょうか。

彰義隊の墓

江戸幕府十五代将軍 徳川慶喜大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征群 (官軍) や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(1868年)二月に同盟を編成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退穏後も徳川家霊廟の警護などを目的上野山 (東叡山寛永寺) にたてこもった。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征群は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。

正面の小墓石は、明治二年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(1881年)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会/立札より)

TOMB SITE OF SHOGI-TAI SOLDIERS

Shogi-tai was an army of the Edo shogunate, which was organized in 1868 to fight against the Emperor at the end of The Edo era. They fought here on fifteenth of May in the same year. In those days Ueno-no-yama(Ueno hill) was in the precinsts of Kan-eiji temple(Tokugawa shogunate's family temple), where there were destroyed. The Shogi-tai was defeated by the evening of the day. The fight is called Ueno war or fight of Shogi-tai.

These two tombstones were erected for the Shogi-tai soldiers killed here. The small tomb stone in the front was erected by a priest of Kan-eiji temple in 1869 and the large stone in the back by a survivor, a soldier called Ogawa Okisato and several of his comrades.

These tomvstones were registered as important cultural assets in 1990 in the Book of cultural Assets of Taito City. 

 

感想 

幽霊の寿命

最近、幽霊の寿命は400年ではないか、と話題になっています。今からですと、江戸時代からの幽霊は生きていることになります。私達は令和を生きていますが、明治・大正・昭和・平成を生きた人の話は、案外身近です。先祖が彰義隊の戦に加わっていた話を伺う機会もあります。

 

彰義隊の墓参り

彰義隊のことを含め怪談話を書き始めてから、ひどい頭痛に悩まされるようになりました。昨日は特に重く、ちゃんとご挨拶をすべきだったと反省しました。

今日ようやく彰義隊の墓と不忍池で供養をし、弁天堂で参拝しました。

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花を手向け、線香を上げ、彼らの生き様や時代を後世に伝えることを誓いました。私はまだブログを始めたばかりですが、時代を生きた志士に誠意を尽くして、自分の知っていることを分かりやすく、感動を伝えたいと考えています。

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 まだ知識不足で誤りも多々あるかと思いますが、自分の大切な時間=命をつかって、私の記事を見に来てくださる方々に感謝いたします。真心を込めて、書き続けます。

 

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