【女一人旅】死にたいなんて思うなら、長州行って 熱くなれ!(⑷吉田松陰を育んだ場所)吉田松陰、金子重輔、生誕地、聖地巡礼、歴史

さて、今回は吉田松陰が 生まれた場所 をご案内いたします。

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 ※2018年4月末に、山口県萩市を訪れました。

生誕地ってなによ

 出生地、出身地、本籍地 

観光地でしばしば目にする”生まれること”の表現。誕生(人や物事が生まれる)、生誕(人が生まれる)、出生(人など生命が生まれる)、降誕(神仏や準ずる人が生まれる)という意味です。たとえば、仏教を開いたブッダ(釈迦)の聖地は、インド(終焉の地や修行地)なのか、ネパール(生誕地)なのか、物議を醸し出しています。どちらにとっても大切な観光地なのでしょうね。

でも当人にとって、 ”生誕地” を聖地とされるのはどうなんでしょう。死に場所は場合によっては自分で選べますが、生まれた場所は 100% 自分では決められないじゃないですか。もし仮に私が有名になったとして、聖地巡礼の中に ”出生地” は入れて欲しくないです。”出身地” はともかく、ココで生まれたらしいよーって言われても、母親の里帰り出産で生まれた土地に感動されても何だか困ります。

しかし、"吉田松陰 生誕の地" はこのような名前が付いていますが、実際は ”出身地” の意味合いが強いです。感動しました。城下が一望できる場所とはその通りですね。

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生誕地内 配置図

生誕地の配置図はコチラ。

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①旧宅敷石

②「吉田松陰先生 誕生之地」石碑

③松陰先生 産湯の井戸

④寄付者 石碑

⑤行啓 記念碑

⑥行啓 記念樹

⑦「杉氏 旧宅の跡」碑

吉田松陰金子重輔 銅像 (左は墓所)

松陰誕生地と萩の眺望

この地は一名「団子岩」ともいわれ、吉田松陰が生まれ、幼児期を過ごした所です。

ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれます。萩は関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州 指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であるといわれています。

旧宅 敷石

この ”旧宅敷石” については「旧宅敷石?!」と目を疑うような観光スポットですが、どうやらこの赤い矢印の辺りを指しています。

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この間取りに石を置いて、どのような住まいだったかを表しています。大正時代に、この旧宅に住んでいた者の情報によって再現されました。

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吉田松陰先生 誕生之地 石碑

山県有朋のお人柄

石碑の文字を書いたのは、第9代 内閣総理大臣山県有朋です。ど偉い人なのに この石碑には吉田松陰先生 誕生之地 門下生 山県有朋」と書いているんですね。家族の縁が薄かった山県有朋は、師匠や友達をとても大切にしたんだろうなって思います。自ら改名して、朋友が有る=有朋 にしていますからね!

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実際見てみると、この石碑はとても大きいです。私がこの石碑を見た時に考えたこと。「野にある巨大な石にお金かかってそうだなぁ」

松陰先生 産湯の井戸 

産湯とした井戸だって残っていたら文化や歴史として価値のあるもの。阿武郡小学校 職員児童によって建立されました。苔が生えているところがよりカッコ良く感じます。

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寄付者 石碑

どうして横からしか撮らなかったのだろう?過去の私を攻めても仕方が無いのですが、これしか写真が残っていませんでした。

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側面ではなくて前面・後面が見たいですよね。また萩に行ったら写真を差し替えますので、お許しください。ふぅ・・ どんな文字が刻んであるのかは今のところ、謎です。

行啓 記念碑と記念樹

全体的に、めっちゃ豪華な石碑が建てられています。きっと萩の石屋さんは繁盛していますね! 右が行啓 記念碑、左が記念樹です。幹しか映っていなくて、ごめんなさい!

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実際のところ、どれが記念樹なのだろう?といった疑問が残りました。

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平成6年11月に行啓したのか、下賜されたのか、不明です。

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「杉氏 旧宅の跡」碑

山口県について書いてらっしゃる方の、ブログを貼っておきます。

前項の寄付者 石碑と合わせて、写真が掲載されていましたのでご参考までに。 

吉田松陰金子重輔 銅像

吉田松陰金子重輔 銅像 、左側 すぐ傍に墓所があります。

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高さ8mと言う巨大な銅像です。上野の西郷隆盛像 (3mほど) よりも大きいとは!

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左に松陰先生、右に金子重輔です。

吉田松陰先生 銅像

この銅像は、明治維新100周年を記念して 1968(昭和43)年に建立されたものである。松陰先生が弟子の金子重輔を従え、下田沖()のペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したもので、高さは約8Mある、題字は当時の佐藤栄作首相が書き、銅像は萩出身の日展審査員長嶺武四郎が製作している。

Bronze Statue of Yoshida Shoin

Tangible Cultural Property Designatad by Hagi City.

This bronze statue was created in 1968 for the centenary of the Meiji Restoration. The statue depicts Yoshida Shoin with his student, Kaneko Shigenosuke, watching the arrival  of Commodore Perry's Black Ships at Shimoda Bay. The statue is eight meters high. The text was written by Prime Minister at the time, Sato Eisaku. The sculptor was a member of the Japan Fine Arts Exhibition, Nagamine Takeshiro.  

金子 重輔

松陰との出会い

金子は、別名”重之輔”や”重之助”と書きます。”重輔” も含め全て読み方は”しげのすけ”です。商人の息子でしたが、養子に入って足軽となりました。その後 奉公に出ていた江戸の ”蒼龍軒塾” で学んでいると、1つ年上の吉田松陰と出会い、意気投合します。

留学したいよね

異国で学びたい意思を固めた吉田松陰に賛同し、密航することを決意します。嘉永7年(1854) 3月27日夜、ボートを盗んで下田沖に停泊していたアメリカの軍艦に近づき、渡航への思いを訴えるもアメリカ側に拒否されてしまいます。密航は大罪、浜辺に送り返された2人は自首しました。

最西端、遠いよ病人だよ

国の法律を破る罪をおかした2人ですが、蟄居・謹慎という軽い判決で済みました。萩(長州藩)へ帰るまでに伝馬町(日本橋)の牢へ入れられていたのですが、兵学師範の吉田松陰足軽金子重輔では収容された場所が異なります。そこで金子重輔は病に罹り、東京 ⇒ 山口県萩市 (江戸から長州)までの護送中も、寒い冬の中風晒しにされてしまいます。萩でも武士の牢獄・野山獄ではなく、百姓町人の牢獄・岩倉獄へ入れられ、劣悪な環境の中、命を落としました安政2年(1855)1月11日、享年25歳でした。

金子君を死なせてしまった・・

金子が埋葬された保福寺の墓には、吉田松陰金子重輔を偲んで寄付した一対の花立があります。そこには「寄附吉田氏」と刻まれています。

あとがき

私が訪れたのは4月末のGW時期、新緑がとてもキレイでした。きっと江戸時代も同じように町が一望でき、自然豊かだったのでしょうね。

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吉田松陰とその家族が、勉学や農業に勤しみ、この場所を愛し、安らぎとした気持ちが伝わってきます。団子岩から見る萩は、また一段と素敵に見えました。

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ご拝読ありがとうございました。