【女一人旅】死にたいなんて思うなら、長州行って 熱くなれ!(⑹優秀な人を育てちゃったヒッキー時代) 世界遺産、幽囚ノ旧宅、吉田松陰、杉百合之助、松陰の実家、

私は、"松下村塾" と共に世界遺産に登録された ”吉田松陰 幽囚ノ旧宅” へ行きました。

なぜ、この場所が? そう思いますよね。実は、とても深くて面白い話が詰まった所なのです。吉田松陰が ”保護観察処分" になった頃の話を書いてみます。

 ※2018年4月末に、山口県萩市を訪れました。
時は江戸時代、現在の山口県萩市に生きる1人の若者がおりました。超有名な偉人ですが、実は罪をおかした人物です。彼の ”ステイホーム時代” を探ってみます。

幽囚って何したの?

幽囚とは、捕らえられて牢に入ることを指します。

この頃の法律は、まず それぞれの藩 (都道府県) が決めていました。

現在は、条例法律憲法

江戸時代は、藩法国法 

超 悪い事” とされている "海外渡航" をしようとした吉田松陰。これは、国法 違反です。そのため彼は ”幽囚” の身となり、長州 (山口県萩市) にある 野山獄 へ入りました。そんな彼に対し、お殿様はじめ藩の役人達はとっても甘く「まぁ・・お父さんがちゃんと見張ってるなら 自宅へ帰っても良いよ」と言い、実家へ帰ることが許されました。 それがココ、”幽囚ノ旧宅" です。

吉田松陰の罪って? 

吉田松陰の罪” について、説明します。

脱藩 / 藩法違反

【刑】萩へ帰される ⇒ 吉田 家が潰される(士籍剥奪・世禄没収)

海外渡航禁止令 / 国法違反

【刑】 萩の刑務所 (野山獄) へ入牢 ⇒ 蟄居” =引きこもり  ☚ この場所 (幽囚ノ旧宅)

海外渡航”とは。吉田松陰は外国へ行きたくて行きたくて仕方がありません。その頃 日本の海岸に停まっていたアメリカ人の船に舟を盗んで近づき、「僕も一緒に船で連れて行ってください!」とお願いしたんですね。それはなんと、あの ”ペリー” だったと言われています(会ったかどうかは不明)。しかし返事は NO!そのため 吉田松陰留学は叶いませんでした。(ブログ⑷参照)途方に暮れた彼は、潔く自首する事を選んだのです。

政治 批判 (幕府の外交政策など) / 国法違反

【刑】萩の刑務所 (野山獄) へ入牢 ⇒ 死刑(斬首)

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こうして⑵の罪で”保護観察処分”となった吉田松陰は、凄いことをしてしまうんです。

超・引きこもり生活 

部屋から出ちゃダメ?

吉田松陰は ”蟄居” の身。”蟄居(ちっきょ)” は、外出どころか 部屋から出ることも禁止。食事も室内で済ませます。認められているのは用足し(トイレ)だけ。そのため、この家の東側 3畳半の部屋にずーっと籠っていました。 

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(風雲児たち  巻 / みなもと太郎)

 

 ”江戸時代の刑罰” 一覧 (加筆修正の予定) まとめてみました。

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吉田松陰は、この ”幽閉室” で本を読み、物を書き、家族の話を聞き、家族に ”講義” を始めたんですね。初めから人が集まっていた訳ではありません。

吉田松陰は養子に出ているので 名字は ”吉田”ですが、家族は ”(すぎ)” と言います。つまり、自分は家を持っている(建物ではなく当主)けど、杉さんの家で面倒を見てもらうことになりました。それが "幽囚ノ旧宅" です。血のつながった家族ですが、実際は別の家庭です。吉田松陰の名前は、”寅次郎” と言います。松陰とは、号 (別名)です。

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松下村塾 誕生秘話

松陰のパパが 超・理解ある人物だったため「寅次郎 (吉田松陰) の話 (講義)を、私が聴こうじゃないか」と言い、吉田松陰による ”講義" が始まりました。家族の皆が生徒となり、あの有名な山鹿流 軍学師範 (吉田松陰) が講義を行っていると噂を聞きつけ、熱意ある人々が集まり、 ”松下村塾” が誕生したのです。その前身は幽閉されていた この旧宅です。

そのため、”松下村塾” と ”幽囚ノ旧宅” は、セットで世界遺産に登録されました。

この ”幽囚ノ旧宅” から始まり、”松下村塾” で人が育ち、青年たちが全国民を奮い立たせ、日本を変えていきました。この杉家への家族講義が始まって、数か月後には熱々の男達がもう ”松下村塾” で学んでいたのです。わずかな期間に人がわんさか集まるなんて、長州人はどれほど学びたかったのか。「待ってました!」と言わんばかりですよね。

この場所で ”松下村塾” を開き、優秀な人材をたくさん育てていきました だから ”幽囚(=優秀) の旧宅” って言うんですよ、きっと(笑)。

杉 百合之助 年表

ちなみに 吉田松陰のパパは、”杉 百合之助 (すぎ ゆりのすけ)” と言います。

貧乏で、仕事し農業もし、家に父も母も弟も一緒に暮らす環境の中、狭い家にも関わらず、不思議なほど子宝に恵まれます。その後、父も母も亡くなりましたが、6人の子ども達が成長し、この ”幽囚ノ旧宅” と呼ばれる広い家へ引っ越しました。 

さて、この偉大なる松陰パパ ”杉 百合之助” の詳しい情報が多くないので、年表にしてみました。”グレイト・ファザー ユーリ” 。

杉 百合之助 (Yurinosuke Sugi) 松陰’sパパ

1804 杉 七兵衛の長男として 誕生

1806 次弟、大助 誕生

1810 末弟、文之進 誕生

1816 自宅が全焼

1824 家督を相続 (※年号 要確認)

1825 滝 と結婚 (村田の娘・児玉の養女)

1828 長男、梅太郎(民治) 誕生

1830 次男、寅次郎(松陰) 誕生

1832 長女、千代(芳子) 誕生

1834 次男、寅次郎(松陰) 養子に

1835 次弟、吉田大助 死没

1839 次女、寿 誕生

1841 三女、艶 誕生

1842 松下村塾 開校

1843 四女、文 誕生

            百人中間 兼 盗賊改め(警察署長) 

1845 三男、敏三郎 誕生

1847 長女、結婚(児玉 祐之)

1848 松本清水口 にて 高洲家と同居

1850 次男、寅次郎(松陰) 江戸遊学

1851 次男、寅次郎(松陰) 脱藩・東北遊歴

1853 松本新道 に転居 ☜ この場所

         次女、寿 結婚(小田村 伊之助)

            初孫、萬吉 誕生

1854 海外渡航 失敗(伊豆下田)

1855 次男、寅次郎(松陰) 幽囚

1857 松下村塾に移転

            四女、文 結婚

1858 次男、寅次郎(松陰) 再入獄

1859 藩職 罷免

1860 次男、松陰 刑死

1863 国相府 内用方 兼 盗賊改方 就任

1865 辞職、死去 

山口県萩市にある立札の内容から、本などを参考にまとめてみました。 

吉田松陰 幽囚旧宅⑴ 

吉田松陰 幽囚ノ旧宅” は、私が見つけただけでも立札3か所・説明文2つと、情報に溢れています。せっかくなので、見つけた全てをアップしておきます。

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この建物は吉田松陰の父 杉百合之助(無給士 家禄二六石) の旧宅である。初め 親族の瀬能吉次郎(無給士 家禄四九石余) の所有であったのでかなり大きい建物であって、畳の間十一室のほか 板の間、物置、土間がある。茶室は明治時代の増築であるが。その他は原形をよくとどめている。

松陰は天保元年(1830) 近くの東光寺山のふもと団子岩に百合之助の二男として生まれ、一家は嘉永元年(1848) 松本清水口の親族高州家と同居し、さらに嘉永六年松本新道のこの借家に移った。百合之助は天保十四年(1843) 以来百人中間 兼 盗賊改方という役(現在の警察署長に相与)に任せられていたが、松陰刑死後の万延元年(1860)松陰に対する監督不行き届の故を以て逼塞 (ひっそく) に処せられ、次いで退穏を命じられたので長男梅太郎(民治)が杉家を継いだ。

松陰は安政元年(1854)野山獄で「二十一回 猛士説」を書いてから「二十一回 猛士」の別号を用い、また「二十一回 とう書」をまとめている。団子岩の杉家墓地のある墓には遺言により 表に「松陰 二十一回 猛士 墓」と刻まれ、生前四猛を実践した。すなわち 脱藩東北遊歴は杉家の清水口時代、外●建白書提出、海外渡航計画、老中 間部詮勝 要撃策はいづれも杉家の新道時代のことであった。  

吉田松陰 幽囚ノ旧宅⑵

吉田松陰 幽囚ノ旧宅” は、私が見つけただけでも立札3か所・説明文2つと、情報に溢れています。せっかくなので、見つけた全てをアップしておきます。

この旧宅は、安政2年(1855)から数年の間、吉田松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が幽閉室である。

松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され 父 杉百合之助 預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた。

Shoin Yoshida Old Residence Where He Had Been Imprisoned.

This is the house where Shoin Yoshida had been arrested for several years since 1855 for having tried to go abroad. Besides reading and writing, he had taught his relatives and disciples here.  

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吉田松陰 幽囚の旧宅⑶ 

吉田松陰 幽囚ノ旧宅” は、私が見つけただけでも立札3か所・説明文2つと、情報に溢れています。せっかくなので、見つけた全てをアップしておきます。

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この建物は吉田松陰の父杉百合之助の旧宅であるが、始め家禄四十九石余の親族 瀬能家から借りたものでかなり広い、

松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ ついで萩の野山獄に移されたが 安政二年(1855) 許されて実家へお預けとなり 三畳半一室に幽囚されることになった。ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。この講義は安政四年松下村塾に移るまで一年半ばかり続けられた。

松陰は安政五年、老中 間部詮勝の要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約一か月間再びここにゆうしゅうされる身となった。

※ちょっと日本語がおかしいのですが、そのまま転記します。

松陰の実家 杉家 旧宅⑷ 

吉田松陰 幽囚ノ旧宅” は、私が見つけただけでも立札3か所・説明文2つと、情報に溢れています。せっかくなので、見つけた全てをアップしておきます。

旧宅は、木造瓦葺き平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室ほか、板間・物置・土間を有する大きい建物です。幽囚室は東側にある3畳半の一室です。
吉田松陰は、安政元年(1854) 3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。翌年に釈放となりましたが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子や武教全書などを講じました。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。
(萩市 観光協会公式HPより) 

下田での海外渡航に失敗した松陰は、安政元年(1854) 野山獄に入れられ、翌年にこの実家である杉家に帰され謹慎生活を命じられました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で「孟子」などを講じるようになりました。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。

松下村塾とともに世界遺産に登録されました。

 (萩市 観光パンフレットより)

伊藤博文 旧宅・別邸

一応、紹介します。

私にとって伊藤博文はあまり興味がないので、1項目の記事で書きます。この ”幽囚ノ旧宅” や ”松下村塾” の近くに、伊藤博文の旧宅&別邸 があります。この辺りは "旧松本村"、下級武士や百姓の暮らしていた地区で、伊藤博文は武士でなく、農民出身でした。

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草莽崛起” や ”奇兵隊” については、また改めて。

補足

現代訳で

杉さん一家は、”吉田松陰 生誕地” (ブログ⑷参照) から、この "幽囚ノ旧宅" のある松本新道 (地名) に移ってきました。現在でいう”警察署長”の息子である次男(吉田松陰)が逮捕され、執行猶予・保護観察処分となりました。

この勉強が出来過ぎる杉家の次男 の考えは、柔軟な考えの子ども達に夢と希望を与えましたが、古い考えのお爺達(幕府)には理解されません。その考えが過激と見なされて、またもや再逮捕されてしまいます。その時、日本はとんでもなく荒れていて、総理大臣 (井伊直弼) は厳しーい態度。次男は死刑、お仲間(水戸藩含む諸藩)も許されず、松陰パパ(杉百合之助)は 長州藩から ”逼塞” と ”退穏(隠居)”の刑に処せられました。家の外には出るなよ!と言うことです。ちょっと説明が分かりづらかったらごめんなさい。書き直しするかも・・

吉田松陰の過激な考え

①政治批判をまとめて手紙出そうぜ (建白書 提出)

②船で海外留学いっちゃおうぜ (海外渡航 計画)

③偉い人を襲っちゃおうぜ (老中 要撃策) ※間部詮勝 は名前です。

吉田松陰は『ハッチャケ行動、21回もするぜ!』と考えていましたが、残念ながら4回までで死刑となってしまいました。(ブログ⑶参照)  

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私の書いた”ペリー提督”

あとがき

吉田松陰という人

まず彼は、長州藩防衛大臣(軍学師範)" の立場にあり、長州藩は ”天皇の家臣(朝臣)” であると考えました。真面目で責任感の強い彼は、「唯一の”朝臣”である長州藩」かつ「長州藩の ”軍学師範” である自分」が、この日本を外国(夷狄)から守らなければならないのだ!と考えました。そうは言っても 太平の世(江戸時代)になって250年、自分が学んできた”山鹿流兵法” では日本を守ることなど到底無理です。日本は最先端の軍事を知らなければならないのだ!と言うことに気が付き、ならば自ら海外渡航禁止令を破って敵から学ぼう!と決意したんですよね。それが今回書いた「海外渡航禁止令 違反」です。

頭でなく心に残す学問

「知識は得るだけでなく、行動を伴わなければならない。」彼は、弟子達に対し自ら手本となるべく活動を行いました。自分の気持ち(信念)だけ押し通すと、ほとんどの人は嫌がり、背を向けます。誰も、その人の心を直ちに理解し、受け止めることなど出来ないからです。吉田松陰の教育は、”考え方” に重きを置き、人を養い続けました。 そして人を奮い立たせました。

精一杯生きる

吉田松陰は、生き様から模範を示そうとした訳ですけれども、私としては松下村塾の塾生と同様、何としても吉田松陰に長く生きていて欲しかったです。死者は人の心に住み続けますが、それは”本来のその人”などではなく、”その人にとって都合の良い人” に創り上げられてしまうだけので、やっぱり生きていて欲しかった、そう思わずにはいられません。私は自殺を否定しませんが、”生き抜く力”を養うことは大切だと思います。吉田松陰の赤鬼・青鬼退治って面白い話ですけどね。(今回は割愛します)

今までは他人事でも、自分にも同じようなことが起こると、自分の経験に似た行動をしていた人のことを思い出したりしますよね。迷ったその時こそ、松陰先生が居てくれたらどんなに良かったのだろうって考えちゃいます。死んじゃうと、もうその人とは新しいやり取りが出来ないですからね。悲しい事です。

軍国主義の都合よく

死して不朽の見込みあらば いつでも死ぬべし

生きて大業の見込みあらば いつでも生くべし 

実は吉田松陰、戦中の日本で ”軍国主義教育のシンボル" とされていました。戦争を知っている世代が吉田松陰を好まない理由は、戦争を思い出してしまうからです。私も吉田松陰が「死んで国のために尽くせ」って教えることには、疑問を感じています。

歴史の正否

令和を生きていると、”この歴史が正しかったかどうか” は判りません。歴史は「こんなことがあった」 と教えてくれますが、「こうすれば良い」「これが正しい」と教えてはくれません。私達は自分の頭で、今 出来ることを考え、まだ真っ白な未来を築き上げていかなければならないんですよね。過去を生きた人の経験を知ることはとても有意義であると、私は考えています。

彼は人に諭すだけでなく、まず自分に大変厳しく生きていました。けどそれは、家族が彼を理解し、支えてくれたからなのかもしれませんね。”幽囚ノ旧宅” に訪れて、彼の家族の温かさに触れたような気がしました。 

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